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祥子先生今昔物語

祥子先生の今昔物語

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新型コロナウイルスへ

2020-05-01

 亡くなる率の高いウイルスや細菌,結核の感染を目の前にしても少しも恐いと思ったことはありませんでした.しかし新型コロナウイルスの,常識をくつがえすほどの潜伏期間の長さ,誰でも側にいただけで感染してしまうこと,そして感染すると突然増悪,急死させてしまうことなど中国からの第一報とその後に続く報告を聞いて,ものすごい恐ろしさを感じました.ウイルスが日本に入って来たときもう時間の問題は明らかであったため,職員の体調管理としてまず行ったことは,職員の出勤前の体温測定で37.0℃以上の発熱の報告とそのご家族の体温管理の報告,手洗いうがいの励行,マスクの着用,施設内の換気と湿度を保つ工夫を指示しました.これは例年インフルエンザ感染時期に行っていることであり,いつもの指示です.さらにこの仕事に携わる者は,一般の職業とは違い崇高な職業であることの自覚をし,いわゆる今でいう3密を避けることを頑張ってもらっています.結果的には感染者はいませんが,37℃前半の微熱でも疑わしいとして解熱後5日間は自宅待機を命じています.緊急事態宣言がでそうな雰囲気がただよい始めた頃に行ったことは,世界中で行っていることですが,12回の施設内消毒の励行です.緊急事態宣言発令後もデイケアや訪問リハビリテーションは通常通り行っていますが,リハビリテーションはデイケア・訪問リハビリテーションと入所の担当者を分け,デイケアや訪問リハビリテーションの担当者が入所にあがってこないようにしました.

 いよいよ日本中に感染が広がるとともに面会制限から面会禁止となってしまいました.自粛生活の中にいるご家族のストレスによる崩壊のニュースを見ると,家族というのはずっと一緒にいてはいけないんだなと感じてしまいますが,ゆうゆうで生活している方々は逆に,ご家族に会えない寂しさをつのらせている方々も多数おられ,今回のことで私の考え方が変わりました.ゆうゆうが皆様を支えていたのではなく,いかにゆうゆうがご家族に支えられていたことかを痛感しています.

 恐らく大暴れしているこの新参者は夏に少しおとなしくなり,また次の秋冬に猛威を振るうと思います.毎朝の朝礼で職員に話すことは,とにかく自分を守り続けなさいということです.自分を守れたらゆうゆうを守れます.ご家族と面会ができるようになったときすぐにお会いできるように,2週間以内の発熱がなかったか,3密の条件からできるだけ避けていたかお伺いいたしますので,どうかご家族のかたがたもこれまで通りご自分達をできるだけ守っていて下さい.

 私共は,新型コロナウイルスがすぐそこに近づいたとき,あるいは残念ながら進入したとき,ご利用者の楯となる覚悟と準備はできています.

強い人の最後の言葉

2019-11-15

 私の前に現れたその強い人に思いを馳せ,少し前回のお話を振り返らせてください.

 ある脳神経外科専門病院からの1本の電話により,その女性は何も語らず,動かず,眼も合わせることなく,私達の病院のベッドに横たわりました.息子さんとご親戚がつきそっていました.いったいこの方は何が見えているのでしょうか,どのような混乱状態に陥っているのでしょうか.症状は明らかですぐに確定診断できました.恐らく1年以内にその命の灯火は消えると思われました.時に遺伝疾患のこともあり,詳しく患者さんの血縁関係で似た症状の方がいなかったか息子さんに伺いましたがいないと判断し,遺伝性なしと判断しました.その1週間後,息子さんが大事な話があると病院へ来られました.

 ここまでが前回のお話でした.今回は息子さんお一人で来られました.実は5−6年前,お母様のご兄弟が同じ病気で他の病院に入院しており,この際に遺伝子検査も施行され,遺伝子異常が認められていたということでした.このことを息子さんはご親戚,ご家族誰にもお話なさっていなかったのです.私からのお母様の病気の説明をどのような心で聞いていたのかと思うと,私の心は何かにぎゅっと絞りあげられるような痛みをだしました.しかし言わなければなりません.「あなたも遺伝子検査おこないますか?」....................彼は一言,「自分の運命はもうわかりました.遺伝子検査はしません.発症しないかもしれないけれど,それに期待はしません.これから家族がどのように生きていったらいいか準備をします.」彼は30代です.奥様と2人の小さなお子さんがいらっしゃいました.自分がいなくなったときにご家族がこまらないように全てを準備しますといって病院を後にしましたが,声を聞いたのはこれが最後でした....

強い人

2019-05-10

 前回何も語らなかった人と強い人(女戦士達)のお話をしました.今回は別の方で何も語らなかった人と男性の強い人を語りたいと思います.

 

 それは自然がたくさん残されている山々や盆地,そして川が流れているところでした.後ろを振り向くとすぐそこまで工業煙突が立ち並び,いつも煙が風に吹かれて踊っているような,大きな「間接喫煙環境」といったところでした.

 

ある脳神経外科専門病院の脳外科医から1本の電話がかかります.認知症を診ているが通常と違うため神経内科で診てほしいという相談でした.その女性は私達の病院に到着し,何も語らず,動かず,眼も合わせることなく,病室のベッドに横たわりました.息子さんとご親戚がつきそっていました.早速,採血,脳波,頭部MRIなどの検査を行い確定診断しました.恐らく1年以内にその命の灯火は消えると思われました.息子さん,ご親戚が私達の話を待っています.私が病状とこれから起こることを話しました.時に遺伝疾患のこともあり,詳しく患者さんの血縁関係で似た症状の方がいなかったか息子さんに伺いましたが,そのような症状の人はいないと判断し,遺伝性はなくこの方だけが発症したものとして厚生労働省に特定疾患の報告をおこないました.

 

 その1週間後,息子さんが一人で病院へ来られ私を呼びます.大事な話しがあると.

何も語らなかった人と女戦士達  Part 2 ー予定されていた命の終わりー

2018-11-10

 前章では,何も語らないこの方と女戦士(看護師)のお話をいたしました.今日お話するのは次の女戦士です.

 天に召されるまで後1ヶ月となったある日,全く身動きせず全身が硬い彼女の体ががたがたと震え始め,全身痙攣を合併しました.点滴で痙攣を止めることができましたが,1回ではおさまりませんでした.物言わぬ彼女に変わって脳が全身を使って語りかけてきます.でもその痙攣のせいで,歯で自分の口唇を噛んでしまい,そこから出血します.痙攣を生じなくても常に口唇を噛む様になってしまいました.口唇より出血してしまうため残っている歯を抜歯しなければなりません.同じ病院に勤務している女性の歯科医師に頼むとき,大丈夫かな,やってくれるかななどとあれこれ考えました.感染源となる口腔内出血部位を扱うこと,抜歯時感染のリスクが高まってしまうことなどの説明と抜歯のお願いが終わったと同時に「ではやりましょう!」,間髪入れず答えてくれました.すごくたのもしい先生で,ジャンヌ・ダルクみたいな戦士のイメージでした.私と先生だけで厳重に体と顔をおおい,先生の指導を仰ぎながらやったことのない歯科助手を務めました.先生の手際よい処置のおかげで出血を最小限におさえることができました.

 再び物言わぬ彼女に「おはようございます.」,「胸の音聞くね,おなかの音聞くね.」と一方通行の会話と心の会話の日々が続きました.そしてその日がやってきました.いつものように病室に向かおうとする私に,看護師より「昨夜行かれました.」と報告が来ました.予定されていた命の終わりでした.予定されていたが故に私への連絡はなく,静かに病院をでられたそうです.

 あれから17年の歳月が経ちました.彼女の後,何例も同じ病気の方とその家族に出会いました.感染のメカニズムや危ない部位もわかり,いまではあの時の彼女のように特別室は必要ありません.私は家族の顔を覚えていません.彼女の顔もいまではうつろです.その何も語らない動かない姿だけを鮮明に覚えています.

何も語らなかった人と勇敢な女戦士達

2018-05-01

 昔昔の話しです.稲妻が横に走る片田舎に赴任したことがあります.そこで一人の患者さんが独りぼっちで天に召されました.その方との最初はその3ヶ月前にさかのぼります.

 

 3ヶ月前のある日,医局長が言いにくそうに,一人の患者の主治医になってくれと頼んできました.その方はストレッチャーで他の病院から転院してきました.間髪をいれず誰にも見られないようにして急いで個室へ運ばれました.

 

 その方の部屋に入るときは頭から足先まで完全防備でマスクをします.採血は看護師に行わせることはせず,医師がやります.看護師さん達はその方が触れたもの,シーツやはてはベッドすら破棄する計画を立てています(注:現在はそこまでする必要は全くないことがわかっています)

 

 世界中を騒がせた脳の感染の病気です.発症して半年も経っていないのに,もうこの方は脳が命令できず,歩けません,食事ができません,話せません.手足を動かせません.恐らくこの方の命は後3ヶ月ももたないことがわかっていました.

 

 誰もがこの方の病気に慣れておらず,というか誰もが初めてみる病気であったため少しおどおどしていました.私はこの方のうれしい顔や悲しい顔,怒った顔を知りません.私はこの方がどんな声なのか知りません.このような状況で殿部に床ずれができるのにそう時間はかかりませんでした.床ずれの出血部位の血液が私達の目や鼻,口に触れたら私達も感染します.

 

 私は看護師さん達が最初少しおどおどしていたため,その処置をするのを嫌がるのかなと思いました.でも彼女達はすごかった.もうおどおどなんかしていません.完全防備の上にゴーグルで目を保護し,数枚重ねのマスクを着け,合戦にいどむように,私と一緒に毎日その感染の元となる血液に向かっていきました.治すことはできなかったけどそれ以上の悪化を一生懸命防ぎました.

 

 この方の命が後1ヶ月となった時,脳が負けたくないと最後の抵抗を示すある症状が出現します.このとき,さらにすごい一人の女戦士が登場,戦いに挑みます.次の女戦士の話,是非次回読んで下さい.

22年前の彼女への手紙 No3  - さようなら ー

2018-01-10

 ある日の朝,いつものように出勤し医局へ入るとすぐに,当直をされていた医局長が私に話された言葉は「すまん.」の一言でした.病室にいるあなたに会いに行かなくても,その言葉で全てがわかりました.前日の夜にどんなことが起きたか,何が間に合わなかったのか,医局長から教えていただくのですが,さようならの言葉が出てきません.気管支に入っていた酸素を送るチューブははずれていましたが,あなたの胸は動いていませんでした.看護師さんはすでにあなたをきれいな女の子にしてくれていました.その姿を確認し,私が行った先は病理室でした.あなたを奪ったセラチア菌に会うために.

 「患者No.××××の培養を見せて下さい.」突然言われた病理解剖の医師はその申し出に少しけげんそうな表情を見せましたが,私は泣かないようにじっと前を見据えていました.提出されたセラチア菌,シャーレの中でそれはそれはきれいな深紅色で培養されていました.「おまえか....」,そう一言言って私は病理室を後にしました.文句をたくさん言いたかったのだけどその一言しか出ませんでした.

 あれから22年経ちました.今の私ならあなたを助けられたでしょうか.今の私は,あの頃「あの先生にまかせたら大丈夫」と言ってくれるような医師に成りたいと思った,そのような医師になっているでしょうか.

 今の私ならあなたを助けられたでしょうか.......

22年前の彼女への手紙 No2  ― セラチアという菌 ―

2017-10-10

 あなたに栄養を確保するためすぐに指導医の先生は太い静脈から点滴を始めました.あなたは必死で点滴は嫌だと抵抗しましたね.なかばあきらめてもらったのよね.でも入院前に指導医の先生が予知したこと,「お嬢さんはとても重症ですよ.」の言葉は的中しました.入院後すぐに重症の肺炎を合併してしまいましたね.指導医からの点滴治療の指示を仰ぎながら,私は毎日気がきではありませんでした.夜もアパートで落ち着かず,実はどきどきしていたのよ.ごめんなさい,そんな中,土日の医局旅行があったんです.
 
 土曜日仕事を終えて宿泊先へ向かうため病院をでる時に,あなたに高熱がでてしまいました.もうとてもどきどきしました.当直の先生がいらしたので報告申し上げ,旅行先のホテルに泊まりました.でもだめでした.あなたから離れていると私が落ち着きません.病院へ戻りますと伝えて日曜の早朝,ホテルを出ました.
 
 病院へ着きすぐにあなたの元へ駆けつけました.不安は的中し,更にかなり高熱になっていましたね.ほっておいて出かけてしまってごめんなさい.無力の私はあわてて当直の先生を探しました.その先生に経過を報告し,すぐに診ていただけないか頼みました.先生はカルテとデータをご覧になられて,このまま経過観察しかないという指示だったのです.
 
 どうしよう,どうしよう,どうしよう,この言葉しか私にはありませんでした.彼女を襲っている肺の中にいる細菌はセラチアという菌でした.彼女の意識がなくなったのはその翌日です.セラチア菌は肺から血管の中に進入しました.血流にのってセラチアがばらまかれるのは一瞬です.全身の臓器に運ばれそこで猛威をふるいます.指導医の先生方が選ばれた次の手段は,呼吸が苦しいのでお薬で意識を落として自分の呼吸を止め,気管の中に管を通して強制的に機械による呼吸をさせ酸素を送る方法でした
 
 私には初めての経験でした.私がとても頼りなかったことごめんなさい,再びあなたを目覚めさせるまで,私から楽しいことは消えました.一生懸命頑張ってくれてありがとう.眼があかない中,手が動き何かジェスチャーできるようになり,それが,喉が渇いた,水がほしいと言っていることだと私にはちゃんとわかったのよ.もう少し,あと少しでセラチアに勝てる,そう感じたの.でもあなたは私の方をみないで,はるか向こうをむいてしまった..........

22年前の彼女への手紙

2017-07-01

 また7月に入り,あなたの事を思い出します.私が医学部を卒業し研修医となって一ヶ月も経たない頃でした.入院患者の担当を決めていた看護師より,あなたの主治医になるように指示され,「はい!」と答え,病棟でベッドに横たわっているあなたに挨拶しましたね.でも医局に入ろうとした時に扉の向こうで,医局長がその看護師を怒っている声が聞こえてきました.「この患者さんの主治医を決めたのは誰だ!」.....

 

 その声を聞き,私でも診られるのに...“と,主治医である私を否定されたような感じを抱き,悔しい思いをしたのを覚えています.そう,私はあなたを治療できると思っていました.あなたの事を,ただ何か心にショックな事があって食べないだけと思っていました.やせ細ったあなたが食べられない理由は,父親から「太ったね.」と言われたことがきっかけでしたね.ベッドに横たわるあなたは,毛布1枚かけられるともう寝返りもできないほど衰弱していました.別の指導医の先生がご家族にこう説明していました.「お嬢さんは棺桶に片足が入ったような状態で病院に来たんですよ.」.研修医で経験不足の私はその意味がわからず,これからしのびよってくる悪夢のような出来事に気づきもせず,‘私だって診られるのに’と医師としてではなく自分としてだけのプライドの塊になってしまっていました.

 

 それからその先生は私に,あなたの精神科の主治医はどの先生になったのか聞かれました.精神科に受診をお願いし,来ていただいた女性の先生のお名前を申し上げると,笑顔で「ああ,あの先生なら大丈夫だ.」と即座に答えられたのです.10年以上もご経験のある精神科の先生と比較する私はかなり愚か者ですが,‘私は絶対に診てやる’と心に誓ったのです.でもすぐに,あなたの体の奥から私の誓いを打ちのめす病魔が顔を出しましたね.あなたへの思い出,いったん筆を置きます.

彼女が生きている事を願って    —届かない年賀状—

2017-04-10

 前回は,診断がついた直後に急変して呼吸停止状態となり,気管内挿管を行って救命できたところまでお話しました.

 

 状態が落ち着きいろいろな詳しい検査をしたところ,彼女を数年苦しめていたこの病気の原因,合併症がわかりました.胸の中央にある胸腺という組織の悪性腫瘍でした.呼吸器外科で摘出し,この病気の薬も決まり数ヶ月入院を経て元気に退院できました.しばらく元気な姿で外来治療を続けました.その後,私が派遣となってしまい,彼女は私の手から離れました.その間彼女からは,おいしいケーキ屋さんがあって食べた事,父親,母親の事など,日常の近況を知らせる年賀状が届いていました.

 

 数年経過し私は戻ってきてまた外来診療に復帰しました.彼女は神経内科外来から外れて呼吸器外科の患者さんとなっていました.胸腺腫瘍は実は胸膜に多数転移しており,その治療を続けていたのです.私が戻ってきたことがわかると,彼女から神経内科初診の形をとり,私の外来に戻ってきました.元気そうで何者にも負けないで生きる強さを感じました.仕事はできないのですがおしゃれ,おいしい食事,好きな洋服,将来の夢,いろいろな女の子の話しをしてくれ,楽しく笑い声のある外来が続き,私も幸せでした.しかし私は転移癌の広さを知り,彼女がどこまで知っているのか不明でしたので慎重に言葉を選んでいたことを覚えています. 2年経ち,また私は派遣の命を受け,他県で働くことになります.

 

 でももう年賀状は届きません.

彼女が生きている事を願って   —眠りの彼女−

2017-01-01

 前回は彼女を初めて外来で診たときの話をしました.

「これは症状が良くなったり悪くなったりするのでなかなかわかってもらえず診断が初めにつきにくい神経内科の病気ですよ.」と彼女に話し,精査のために(本当は命に関わるために)すぐ入院していただきました.診断は間違いなかったため入院してすぐお薬を使い治療に入ります.その入院後3日目です.突然彼女は呼吸が苦しくなり意識がなくなります.指導医の先生が気管内挿管を行い,機械で酸素を送って呼吸の代わりにし,機械の管が気管に入りっぱなしのため苦しいので,麻酔をかけて自分で呼吸ができるようになるまで眠りについてもらいます.すんでのところで命をとりとめることができました.この病気の特徴ですが,病気の症状の一つとして突然の呼吸困難があります.また一方で使用される治療薬のせいでも呼吸困難を合併することもあります.病気の症状の悪化であれば治療薬を増やさなければならないし,治療薬のせいであればそのお薬をやめなければなりません.方針が全く逆なのです.原因がこのどちらなのかを決めないと治療が間違い,もっと悪くさせてしまいます.でも眠りに入った彼女からはもはやどちらかがわかりません.この呼吸困難の嵐が過ぎ去るまでしばし待ちました.

 数週間経ちました.自分で呼吸できるかどうか私達は麻酔を少しずつ少しずつ減らしていって眠りの奥にいる彼女を私達の世界に呼び込みました.きっと彼女は意識の遠くから,自分の名前を呼ぶ私達の声を聞いたと思います.「手を握って.」私の声が届き,彼女は私の手をかすかに握ります.いよいよ管を抜く時間が来ました.抜いた瞬間,かなりの咳をして気管に間違って入ってしまっていた唾液や痰を出しています.その咳の強さに,もう大丈夫,自分で呼吸できると確信しました.

 私達が愕然としたのは,その後の精査の結果を聞いた時です.−続く−

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